Media × Tech

「Media × Tech」ブログはスマートニュースのメディア担当チームが運営するブログです。テクノロジーを活用した次世代のメディアとはどういうものか? そうしたメディアをどうやって創り出していくのか、を考えていきます。

早川書房に聞く、新型コロナ時代の出版社デジタル戦略

 

複数のSNSやWebサービスをいち早く活用し、多くの読者から支持を集めている出版社がある。早川書房だ。Twitter公式アカウントのフォロワー数は7万、Facebook公式アカウントは約6000、そして2016年にスタートした「Hayakawa Books & Magazines(β)」は約6万7000ものフォロワーを持っている。

特に最後に挙げたHayakawa Books & Magazines(β)は、独立した1つのWebメディアのようでありながら、コンテンツ配信サービス「note」を使っていることも話題となった。そんな「Hayakawa Books & Magazines(β)」を立ち上げた経緯やnoteを使っている理由、そして新型コロナウイルスの影響下のなかで、これからの出版ビジネスにおけるデジタル戦略はどう変わるのか、株式会社早川書房 執行役員 山口晶氏に聞いた。

 

f:id:zerokkuma1:20200821165014p:plain
早川書房 執行役員 山口晶氏

 
発売前の書籍を無料で全文公開

早川書房が運営するHayakawa Books & Magazines(β)は、新刊書籍・雑誌の紹介はもちろん、フェアやキャンペーンの案内あり、テーマごとの選書あり、場合によっては1作品まるごと全文掲載まであるWebメディアだ。プラットフォームにはnoteを使っている。 

note上の「Hayakawa Books & Magazines(β)」

 

最近話題となったのが、2020年4月10日19時から48時間限定でスタートした『コロナの時代の僕ら』(パオロ・ジョルダーノ著)の全文無料公開だろう。

 

コロナの時代の僕ら

コロナの時代の僕ら

 

 

作者は素粒子物理学の博士号を持つイタリア人作家。この作品は、新型コロナウイルスの感染爆発が起きたイタリアにおいて、日々刻々と変わる状況を科学者視点で捉えつつ、コロナ以前・以降の変化をどう受け入れ、記憶にとどめていくかを綴ったエッセイだ。

この本の販売日は同月24日。期間限定とはいえ、発売前の書籍の全文を無料で公開したわけだ。そこに迷いがなかったのか、山口氏に尋ねたところ、「ちょうどあの時期は、日本でも緊急事態宣言が出て、書店も少しずつ閉まり始めていた時だったんです。だから『本が刷り上がっても、配本できないかもしれない』という懸念があり、迷った末に『noteに全部出してはどうだろうか』というアイデアに至りました。結局、書籍は予定通り発売し、noteは2日間だけの限定公開となりましたが、90万PVまで伸びました」という。

あくまで「トライする」ために

Hayakawa Books & Magazines(β)とは、そもそも何を目指してスタートしたWebメディアなのか。山口氏は、「背景にはいくつかのきっかけがありました」と説明する。

「2016年ごろ、ビッグデータや監視社会の議論に合わせて、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』が話題となりました。弊社から文庫が出ていたので、この作品を簡単に連載できる媒体があればいいな、と思ったんです。もう1つは、早川書房には新刊情報を掲載する公式サイトはあったものの、WebメディアらしいWebメディアはなかったので、いずれは立ち上げたいという思いがあったこと。そんな動機から、Hayakawa Books & Magazines(β)は、Webメディアの準備段階という位置付けでスタートしました。どういう記事を書いたらどんな反応があるか、書籍販売にWebがどう役立つのか。そうした理解を社内で共有できればいいな、と思って始めたんです」(山口氏)。

『一九八四』の無料記事

 きっかけはあくまで「トライする」ということにあり、組織立った戦略はなかったという。noteを選んだ理由は、簡単に使えて、長文を読むのに適したプラットフォームだったからだ。Webサイト1ページ当たりの文字数は2000字〜3000字未満が適切ともいわれるが、「我々は読み物に特化した事業なので、しっかり読んでもらいたいという思いがありました。noteなら特別な研修なしに使うことができ、長文掲載に向いていると思ったんです」(山口氏)という。

 Hayakawa Books & Magazines(β)には、編集長に相当する役目もなければ、厳格な運用ルールもなく、やりたい人が記事を上げるという自主性に任せている。アップする記事本数も、1日5本上がることもあれば、月で15本足らずの時もある。それでも内容は充実しており、あらゆるジャンルの話題作品の試し読みができたり、電子書籍のキャンペーン案内があったり、一作品の全文連載を楽しめたりなど、すでにWebメディアとして完成しているように見える。

ただ山口氏は「現状はWeb版のPR誌といったところです」との見解を示す。基本的にnoteで掲載されている内容は、紙の書籍のパブリシティを軸にしたものだ。いまはこれで“実践練習”をしつつ、将来それ一つで完結できるWebメディアを立ち上げる時に、どれくらいのクオリティの記事を上げればいいのか、その間合いの取り方を学んでいる最中だという。メディアとしてのマネタイズの方法も検討中だ。

なお、現在の媒体名に付いている(β)(ベータ)も、将来の自社Webメディアの立ち上げを踏まえてのこと。構想中のWebメディアは、現在のHayakawa Books & Magazines(β)とはまったく別物とするため、こちらは永遠のベータ版として、名称に(β)を残していくそうだ。

 
「面白いから使っていこう」を目指して

明確な運用体制やルールを作っているわけではないからこそ、柔軟に運営しているnote。

これに対し、2009年から始めた公式Twitterは、5名が週替わりで運用に当たっている。本の発売などの情報は社内Slackで募り、担当者がピックアップしてツイートを投稿する。担当者個人の思い、たとえば本や映画の感想をつぶやくのもOKだ。全員、主業務はほかにあるので、本業が忙しくなれば、担当を外れることもある。

 

 公式Twitterでのツイート例

noteに比べるとややシステマティックだが、それでも厳しく管理しているわけではない。どちらも、規律があるとすれば「政治や宗教に関する投稿はしない。差別につながる表現には気を付ける」というルールだけ。出版社なので、Webの記事を書くよりも「本を作りたい、届けたい」と思う社員がほとんどだが、このゆるいルールのなかで、なぜ情報を発信し続けられるのか。

山口氏は「Webは本の販売にも役立つし、面白がって、自主的に使ってもらいたい」という。Hayakawa Books & Magazines(β)で最初に取り組んだ『一九八四年』の連載は、大きな反響を呼んだ。これを機に、20代〜30代の若手社員がnoteを使うようになり、「こんな使い方があるんだ」と新しい発見が生まれるようになった。

Webは紙メディアと異なり、失敗があっても致命的なダメージを受けずに済む。連載やプロモーション、アフィリエイトのようなコンテンツまで幅が広がったのはそのためだ。山口氏によると、コンテンツの特性に応じ、さまざまな知見が蓄積されている手応えがあるという。

そのうちの一つが、電子書籍のキャンペーン告知。2018年9月に告知した「海外SF作品300点以上の電子書籍半額セール」をnoteで告知したところ、CVRは20%以上だった。

2018年に行った電子書籍セールの記事
2020年3月半ばにも、コロナ禍の読書ニーズを鑑みて、1000点以上の電子書籍半額フェアを告知した。これは前回以上のCVRがあったそうだ。理由は少なくとも2点ある。

「春のハヤカワ電子書籍祭」の記事


まずは、読書ニーズが高まっている時期に、書店が休業していたこと。ここに電子書籍というメディアが対応できた。さらに、自社の読者にしっかりアプローチできたこと。

「うちには古くからのコアなファンがいるので、もともとSNSとはかなり相性が良いんです。今回のキャンペーンも、すでに購買意欲がある層にアプローチできたので、売上に直結したのだと見ています」(山口氏) 

Webを通じて読者からの反応があれば、出版社としても嬉しい。もちろん売上に直結すればベストだが、90万PVを達成した『コロナの時代の僕ら』のように、人々や社会に投げかけることで、大きな反響を呼ぶコンテンツもある。そうやって、社内で「面白いから、使っていこう」という気運が生まれれば大成功だ。

特に今回のコロナの後は、読者との関わり方や本の流通、企画・編集のやり方が大きく変わっていくことが予想され、「大手はすでに取り組んでいるが、中堅以下の出版社のデジタル戦略がより重要になる」と山口氏はいう。


「遊び」がなくなる懸念も

実際、非常事態宣言下で変化したことは多数ある。たとえば冒頭で出た、書店への配本問題もその1つだ。

実は非常事態宣言下にあっても、取次を通じて書店に配本は可能だった。ただ都市部の大型書店の場合、店舗自体は休業していたため、実際に本が売れたわけではない。むしろ郊外や地方の書店で売れ、なかには前年比が150%近くになった店舗もあったという。 

この影響は2020年8月現在も続いている。都心部の人の流れはコロナ前には戻っておらず、都市部大型書店に重点的に行っていた配本のバランスを見直す可能性もある。

著者との打ち合わせや編集作業も、デジタルシフトが進んでいる。山口氏も、それまでは毎月著者と対面で打ち合わせを行い、情報交換していたが、いまは基本的にオンラインだ。また社内の情報共有や業務も、今年2月に全社導入したSlack上で行うケースが増えている。印刷物の場合、色校正など現物確認が必要になるプロセスもあるが、企画出しやすり合わせはSlackを使っている。装丁についても、Slackで話し合っているという。

ただ山口氏は、「全部がデジタルになると、『用件を伝えて終了』みたいになるので、『遊び』がなくなる気はしますね。著者や周囲との情報交換など、遊びの部分でアイディアが出ることもあるので、そういうものがなくなると、社会としてどうなのかな、とも思うんです」と、正直な思いも打ち明ける。急激に“変わらざるを得ない”状況になった戸惑いは大きい。

一方で、デジタルを否定しているわけではない。かつては書店やブックカフェで開催していたオンラインイベントも、ネットを使えばより多くのファンの参加が可能になる。海外の著者やエージェントとの情報交換はスムーズになる上、「『コロナの時代——』のジョルダーノ氏は、オンラインを通じて日本のマスコミのインタビューを4回受けることができました」(山口氏)というメリットもあった。

オンラインだからこそ実現したインタビュー記事

「今回実感したのですが、出版社は、非常事態が起こっても、それに対応した商品が開発できるという強みがあります。5月の連休明けからコロナ関連の書籍が次々に刊行されましたし、紙の本を届けられなくても、電子書籍という手段を使って読者に届けることができます。では、どこでどうやって読者とつながり、情報を出していけばいいのか。わからないこともたくさんありますが、いま起こっている様々な変化にこそ、出版社のデジタル戦略のヒントがあるのではないかと思うんです」

 
コロナ以降こそ求められる試行錯誤

山口氏は、自身も含め、「人々の情報やメディアへの接し方が変わった」と感じている。ウイルスに関する不安から、いままで見なかったメディアへの依存度が高くなったり、逆にこれまで触れなかったメディアや情報ソースに触れる機会が増えたり、関わり方が変化している。街中や書店といったリアルな場よりもインターネット、あるいは新聞や雑誌に回帰する流れもある。

考えようによっては、ZoomやFacebookメッセンジャー、Google Meetもメディアといえる。人が集まって、コミュニケーションしたり情報を発信したりする「場」となるからだ。そうしたなか、「出版社としては、どこでどのように読者とコミュニケーションしていくか、どのように本の宣伝をしていくか、試行錯誤が続くと思います」と山口氏はいう。

出版社は、こうした変化にどのように適応し、読者とのコミュニケーションや情報発信を進めていくのか——山口氏は、この問いに対し、構想中のWebメディアを例に出して次のように説明する。

「一口にデジタルメディアといいますが、イベントの場であったり、読者のコミュニティとしても機能したり、かなり幅広いですよね。だから昔のような『Webマガジン』を作ってもあまり意味がないというか、違うかもしれません。出版業ですが、テキストだけにこだわらず、音声コンテンツや動画もあってもいいし、何なら早川書房らしく、中国語や英語の記事をそのまま載せるのもありでしょう。訳したい人がいれば、その翻訳記事を載せてもいいですし、いまは翻訳サービスも高度なものが出ています。日本だけの発信だとあまり面白くないですし、いろんな言語、表現、コンテンツがあってもいい。ちょっと違う何かを作り、コミュニケーションや情報発信ができればいいですね」

(取材/平松梨沙 原稿まとめ/岩崎史絵)